Laugardagur, apríl 24, 2004
Video Killed Music?

人見記念講堂にてDavid Sylvianライブ。

ステージ上はデヴィシル,Steve Jansen,そしてバックの映像を担当する高木正勝の3人構成。前半はキーボードの前に座り『blemish』主体で進行し,途中からはアコギに持ちかえて新旧色々取り混ぜてという選曲。とにかく低く震えたあの声の魅力に酔いしれる。なかでもまさかの『Praise』にはこれ1曲だけでライブ全体として満足するくらい。

しかし,はっきり言って映像が邪魔。音との関連性を感じさせる要素がほとんど無いにもかかわらず,やたらと視覚にだけは訴えたつくりで(パーティクルの高速運動,きつめのエフェクトと色彩…),そのため肝心の音への集中をひどく妨げられる。結局,毎曲演奏開始時にステージを見つめ,そこでつらいと思ったら即座に頭を下げ眼をつぶっては音に集中するの繰り返し。

一応断っておきますが,映像だけを別に切り離して鑑賞すれば刺激的と感じるであろうものもなかにはありました。ただそれがこのライブの主役が奏でる音と一緒に使われる必然性が全く感じられなかったという話。どういう理由からかはわからないけれど,途中で2曲ほど映像を使用せずに演奏された時には明らかに音を敏感に捉えられただけに更にその想いは強まるばかり。となると,あのハコの大きさでもしステージ上に兄弟2人だけだったら見た目にしょぼいという単なる見栄えの問題?(個人的には別にしょぼいなんて思わなかったほど音には満足してたけど)。

と言うか,今回使われた映像の中の幾つかは以前に足を運んだ高木正勝自身のライブで見たことのあるものだったんですが…。他人の曲のために作られた映像をそのままデヴィシルの曲に使い回してもそりゃあうわけないんじゃ?。もちろんどの曲にどの映像を使おうという選択には気を配っているんだろうけど,例えば完全に音との同期を狙ったKraftwerk,またあの音世界を更に増幅させる映像を見せてくれるSigur Rósなどに想いを馳せると客をなめてんのかよと…。

なんてことを眼をつぶりながら考えていたら次第に腹が立ち始め,思考は更にあらぬ方向へと飛躍。ライブ以外,例えばPVでもどれだけ音の世界を広げているものがあるのかとか,逆に画としておもしろかったら音のほうが意識から消えることがあるよなとか,それって"Video Killed Radio Star"どころか"Video Killed Music"じゃねぇかよとか,つべこべ言わずにお前が映像を作ってみろよとか,もう何考えてんだか収集つかない状態。



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