相も変わらず,ネットの世界は偶然の連鎖に満ちている。
きっかけは先日購入したボードゲーム。その数学的意味を探っているうちに,ゲームで使用するコマの木工製作に関心が移る。ドイツの伝統工芸が関与していることが分かったところで,その他の気になるボードゲームを幾つかチェック。その多くが(再び)ドイツ製ということから,ニュルンベルクで毎年2月に開かれている国際玩具見本市を訪れたディーラーさんの報告記を読むともなく眺める。そうこうしているうちに思い出したのが,ニュルンベルクでおもちゃと言えばPlaymobil。今年はまだ新作をチェックしていなかったと,幾つかのサイトを訪問。その流れで最終的に辿り着いたのが,巨大掲示板のPlaymobil板。そして「ハンス・ベック氏に黙祷」の一文を目にすることとなる。
今年の1/30,Playmobilの生みの親であるHans Beck氏,御逝去。享年79歳。
・Geobra Brandstätter (Playmobil Official)
・Deutsch Welle
このサイトを立ち上げたそもそものきっかけは,まさにPlaymobil。気になる箱絵をスキャンしてアップしたり,海外のファンパーク訪問記をまとめてみたり。今でも好きな気持ちに変わりはないけれど,絶対的な熱量は明らかに下降。約3ヶ月,その報に気付かなかったことが何よりの証拠でもあり。
ネットを巡ると,イギリス・アメリカ・フランスなど,ドイツ以外の新聞社サイトの多く,またWiredにも記事が掲載されている。
・The Times 20090205: “Hans Beck: toy designer”
・The Telegraph 20090209: “Obituaries: Hans Beck”
・New York Times 20090206: “Hans Beck, Designer of Little Plastic People, Dies at 79”
・The Washington Post 20090205: “Inventor of Popular Playmobil Toys”
・Wired 20090204: “R.I.P. Hans Beck, “Father of Playmobil””
各記事を追いかけていると,生い立ちからPlaymobil誕生の逸話だけではなく,販売各国それぞれの製品に感じる文化的価値観の差,また新製品に対するGeobra社との意識の違いなど,あのPlaymobilの笑顔(benign smile)だけでは終わらない現実も幾つか見えてくる。それでも貫き続けた”no horror, no superficial violence, no short-lived trends”のデザインモットーに襟を正さねばと。
最後に個人的な思い出を少しだけ。
Timesにも記されている,ドイツを代表する100人として2000年に開催されたハノーファーのExpoでのドイツ館に飾られた石膏像。奇しくも会場を訪れ,しかもウチの娘と同じ像が立っていたのを見た時の喜びといったら。彼からの授かり物としてこれからも仲良くしていきます。
Expo 2000 Hannover 01
Expo 2000 Hannover 02
My Daughter
Tags: Playmobil
せっかくの上方。落語のひとつも聞かずには帰られないと,不慣れな大阪の地理をiPhoneに頼り(乗換案内とgoogle map様々)中崎町へ。
笑福亭たま「ナイトヘッド~第2章」
師匠・福笑譲りのオーバーアクションと張りのある(時にはありすぎる)声。やっぱり好きだわ。期待のショート落語では枝雀「SR」との比較も語られ,その味わいの違いをじわりと感じる(サゲの後,すぐ笑いが来ずに不思議な余韻が残る)。
帰途,日中の酷使に音を上げてiPhoneのバッテリが底をつく。
素手で戦うには梅田の地下街は広すぎた。
6月に期限の来る国立博物館年間パスポートのスタンプ空白が3つ。これはさすがに東博だけでは賄いきれないと思っていたところに,降って湧いた上洛の機会。それならば,せっかくだからと更に南下。
奈博「国宝 鑑真和上展」。
静かに坐す鑑真和上の閉じた瞼の内を見つめていると,この世界には音というものがそもそも存在していなかったかのような幽寂感。暫しの時が流れ,我に返るのは自らの足音。左右に廻り,それぞれに異なる表情も拝顔。紺紙金字好きにはたまらない法華経も食い入るように。
帰路,依水園・寧楽美術館を経て興福寺。
国宝館にて阿修羅像の不在を守るのは,ガラスケースの横幅一杯に並べられた板彫十二神将像中の八神。普段は二から三神ということで,初めて見るものも幾つか。「留守は俺達にまかせとけ」と言わんばかりの闊達な姿態にも自然と笑みがこぼれる。
とは言え,あるべきところにないものへ馳せる気持ちも拭い切れず。不在ゆえに,その存在を強く想うのは人だけに非ずということか。
上野で逢ったら,八神の頑張りを伝えよう。
時計はそれほど見るほうではない。
日に幾つも開始・終了時刻を気にするような過密スケジュールで動いているわけでもなく,またひとたび物事に集中したら脇目を振ることなく没入出来る性分でもあり。
朝にメールチェックで覗くiPhone,昼に仕事で眺めるPCモニター,夜に佇む乗り換えの駅ホーム。それでも,何かの拍子に眼をやると,日に3度4度は決まって44分の表示。秒まで表示されるデジタル時計では○○:44:44ということも時には。
ぞろ目が記憶に残りやすいのかと思えども,だからといって11分や55分に出会ったことは意識になく。さりとて”4″という数字を忌み嫌う日本人的な感覚から来るものだとしたら,42分や49分に遭遇したことも少しは覚えていても良いのにこれまたさっぱり。
ここから数の神秘を探りに行くのも嫌いではないけれど,せっかくだから明後日まで待ってみようか。それまではバースやブーマーのデカイ背中を思い出し。