ワタリウムで川崎和男氏の講演。テーマは「ロシア・アヴァンギャルド – デザインの源流から未来のデザインへ」。
川崎さんの視点で捉えたロシア・アヴァンギャルドというこたえられない企画(きっかけはロトチェンコの復元されたカップ(現在ワタリウムで展示中)を川崎さんが眼にしたことからだそう)。もちろん示唆に富む話を聞けることは分かってて参加したんだけど,そりゃもう本当に刺激的。なかでもマヤコフスキーの存在再確認(詩人としてよりもコピーライターとして),マレーヴィチの「Resolution ‘A’ in Art」(ネットで調べたらイタリアのサイトがひとつ出てくるだけ。図書館行って直で調べないとダメだ),更に一応元建築野郎としてこの時代からほとんど進んでいない建築図面の表現(タトリン以外でレオニードフ,チェルニオフ,メーリニコフなど)についてなど,色々と深く知りたいところを頂く。
他にも雑学的ネタ(自分的には大ネタだったけど)としては,コーヒーカップと受け皿の容積は等しくなければいけない(これが出来ていないもの(例えば受け皿が限りなく平面に近く容積が少ないもの)はデザインとして間違っている)という話。
仮にカップを倒した際,中のコーヒーを受け皿で文字通り全て受けることが出来ないといけない。というのがその理由。となると,「受け皿」という日本語も気になるところ。単にカップを「受け」るからだけでなく,コーヒーという液体を「受け」るという意味も含まれて(もしくは後者の意味のみで)命名されたのか?(ちなみに英語の”saucer”は辞書によるとラテン語の”sal”(英語の”salt”,つまり「塩」)かららしい)。ちなみにネットでちょろっと調べたら,西欧では19世紀中頃まではコーヒーを冷ますために受け皿に移し替えて飲む人も多かったとか。その視点から考えてもそれなりの容積(その前にもちろん深さも)が必要だったことが類推できる。
どちらにしろ,自分のこれまでの生活習慣の中では受け皿を眼にすることが少なかったこともあって(今じゃマグカップどころかペットボトルが主流だもんな。せいぜい昔ながらの喫茶店に足を運んだ時くらいか(それすら少なくなってきてるし)),全く気に留めたことがなかった。まさに眼から鱗,これから視点が明らかに変わります。
講演終了後,外苑前の駅に向かうと聖地で八咫鴉を崇めた人々の途切れることのない青い列に遭遇。その上気した表情から自ずと結果は明らか。