やっと逢えたね
リュー・ドゥ・バックですれ違った女性の香水に遠く離れた恋人を思い出す。
匂いが喚起する記憶の甘美と残酷。
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そんな文章が自分に書けるわけないじゃない。
階段を一段一段上がる度に強くなる匂いにどこか覚えあり。これは東大博物館小石川分館の匂い?。飴色の木製床,天井まで届く木製キャビネット,そして集いし標本の数々。はるばるパリまでやってきたはずが,はるばる東京に戻ってきていたとはね。
かつての姿を知る人ならば相違点にも気づくのでしょうが,初めて訪れた者にとっては何事もなく何十年とこの雰囲気を保ち続けているとしか思えない。特に手前の部屋,虎や水牛などの大型剥製が佇む空間は期待に違わぬ景色。奥の部屋,鳥類の並ぶキャビネットもその豊かな色彩に目を見張る。ただ,よく見るとキャビネットの中には何処か密度が足りないものも。この辺りにまだ復興半ばの現実を見る想い。
奥のテーブルでは,大泉滉とウィル・ライトを足して2で割ったようなオジサマが,カミキリムシに向かって器用にピンを刺している。欲しいものもあれば訊きたいこともある。作業を邪魔してゴメンねと話しかけると,もちろん返答はフランス語。こちらのつたない英語とあちらの完璧なフランス語。どこまで行っても平行線。これが噂に聞くフランスの洗礼?。お互いに若干の気まずい空気が流れ始めたところで,オジサマが何処かに電話。すると,1階からブロンドのマダムが登場。疑ってゴメン,オジサマは良い人でした。素敵なマダムの通訳のおかげで幸福な時間が流れていく。
訊くことも訊いたし,買うものも買ったし(そりゃホントは,高くて買えないものばかりだけどね),そろそろ辞するかとひとつ大きく深呼吸。小石川の匂いに混じり,何か焦げたような匂いが鼻腔を抜ける。興奮状態では気づかなかった7ヶ月前の残り香…。そう思って今一度と店内に目を配ると,一番奥のキャビネットの中に黒く煤けた店内の写真。世界を標本するこの店が自らを標本する。
ますます好きになりました。